歴史(古琉球)記事一覧

首里城琉球王国の誕生は、今から約600年前の1429年まで遡る。それまでの時代は三山時代と言われ、南部の南山、中部の中山、北部の北山の3つの大きな勢力が国を制していた。この頃は按司(あじ)とよばれる豪族が現れ、各地で抗争を繰り返していた。そして中部の中山の尚巴志(しょうはし)が、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼし、琉球王国が誕生したのである。琉球王国は1879年まで約450年間にわたり、...

斎場御嶽那覇の中心部から車で約1時間、沖縄南部にある斎場御嶽は、琉球王国時代から特別な聖地として崇められてきた場所である。沖縄に約900カ所あると言われる御嶽の中で最高位とされており、その信仰は今もなお続いている。琉球開闢伝説において、アマミキヨが七つの御嶽を作り、その一つがここ斎場御嶽である。御嶽の中には6カ所に神域があり、大庫理・寄満・三庫理においては、首里城と同じ名前を持っており、琉球王国時...

普天満宮琉球八社の一つに数えられている普天満宮は、宜野湾市の唯一の神社であり、沖縄中部の最大の聖地として親しまれてきた場所である。琉球八社とは、王朝から特別な扱いを受けた神社のことで、真言密教を深い関係にある。五穀豊穣、航海安全、縁結び、安産、心願成就などの御利益があり、地元の人たちに古来から大切にされてきた場所である。創建の時期について正確なことは明らかとなっていないが、普天満宮の洞窟に琉球古神...

識名園はシチナヌウドゥンと呼ばれ、琉球王家最大の別邸で首里城の南に位置していることから、「南苑」と呼ばれた。識名園が完成する前に、王家の別邸として1677年に、首里の崎山村(現・首里崎山町の首里カトリック教会)に御茶屋御殿が造られた。首里城の東にあったことから「東苑」と呼ばれており、南苑はそれに対する呼び名である。造営の時期についてはっきりとしたことは分かっていないが、第二尚氏王朝時代に始まったも...

沖縄の言葉で太陽が昇る東側を「上がり」といい、「東御廻り(あがりうまーい)」とは、琉球開闢の神「アマミキヨ」が理想の楽土・ニライカナイからやってきて、その後住み着いた聖地を巡拝することを意味する。アマミキヨはまずは久高島に降り立ち、木や草を天から降ろし、グスクや御嶽を作り、人々に稲作を教えた神である。首里城を中心としていた琉球王国時代において、首里から見て太陽が昇ってくる「あがり」こそが、沖縄南部...

首里城首里城は小高い丘の上にあり、那覇の街並みを一望できるスポットである。周囲は美しい曲線を描く城壁で囲まれており、正殿をはじめとする多くの歴史的建造物がある。また首里城は政治の中心でありながらも、信仰の対象でもあった。そのため城内にはたくさんの御嶽とよばれる拝所があり、戦後一時的に自由に出入りできた時期があったことから、多くの人が参拝に訪れていたという。首里城の創建の詳細について明らかとなってい...

沖縄県中部のうるま市にある勝連城跡は、平成12年(2000)12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されており、沖縄の一大観光スポットとして知られている。勝連城跡は石灰岩の石垣が巡らされており、最高部の一の曲輪がもっとも高い場所にあり、北部の山々、うるま市の離島、知念半島、久高島、中城城跡などを一望できる。そして二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と階段状に次第に低くなっていく構造と...

守礼門首里城の守礼門は、ガイドブックやパンフレットなどにもよくその写真が起用され、まさに首里城のシンボルともいえる門で、2,000円札の絵柄にもなっている。首里を東西に走る綾門大道の東側にある楼門で、いわば日本城の大手門に値するものである。首里城は城門の多い城であるが、中でも一際美しくエレガントな印象があるのが、この守礼門である。柱は4本、二重の屋根と赤い本瓦が印象的で、中国風の牌楼とよばれる形式...

今帰仁城跡三山時代とは琉球の歴史の中の一つの区分で、1322年〜1429年までの時代をさす。14世紀頃になると地方の豪族である按司(あじ)を率いる王が現れ、3つの国を形成していたのである。それぞれ南部の南山、中部の中山、北部の北山と呼ばれ、次第にこれらの国々が、沖縄統一を目指して争うようになっていくのである。南山の本拠は島尻大里城、中山の本拠は浦添城、北山の本拠は今帰仁城にそれぞれ構えていた。つま...

琉球王国は、中国との友好関係を保ちながら、貿易などを通して経済や文化などを着実に発展させていき、約400年もの間繁栄して時代である。しかし1609年に琉球王国にとって、本格的な対外戦争ともいうべき決定的な出来事が起こる。それこそが島津氏による琉球侵略である。薩摩藩主の島津家久から琉球征伐の命令を受け、総大将の樺山久高が約3000人の兵士を連れて、薩摩の山川港から70〜80隻余りの船が琉球王国を目指...

石畳道首里城近くにある石畳道の周辺は、赤レンガの民家が立ち並び、そこに住む人たちの日常が感じられるポットである。ここ石畳道は沖縄県指定史跡で「日本の道100選」に選定されており、NHKドラマ「ちゅらさん」のロケ地で民家が主人公の自宅として登場している。石畳道には20〜30 センチの琉球石灰岩の平石が見事に敷き詰められており、幾年もの月日が経過したくさんの人たちが往来していく中でも、その美しい光沢を...

中城城跡がいつ創建されたのかはっきりとしたことは分かっていないが、14世紀の中頃、先中城按司(あじ)の居城を構えるべく、中城城を造りはじめたことがそのはじまりと考えられている。そしてその後、数世代に渡って南の郭、西の郭、一の郭、二の郭と規模を拡大していった。発掘調査の結果、出土してくる遺物が14世紀後半のものであることから、このころからすでに城として使われていたことが分かる。そして1440年、勝連...

今帰仁城跡は13世紀頃に築城されたと言われているが、その正確な年代や時期については明らかになっていない。諸説あるものの増築を繰り返していく中で15世紀初めに完成し、現在の姿になったといわれている。今帰仁城跡は「北山城」、「山北今帰仁城」と呼ばれ、琉球王国が成立するより前の三山時代において、北山の国王・北山王の居城であった。この時代は沖縄本島を3つのエリアに分け、北部は北山、中部は中山、南部は南山が...

沖縄本島北部にある本部半島の運天港からフェリーで約1時間20分、美しい珊瑚礁に囲まれた自然豊かな島として知られているのが、伊平屋島である。観光地化がさほど進んでいないからこそありのままの自然や沖縄の原風景が残されており、それがこの島の魅力でもある。島の6割程度が山地となる細長いかたちをしており、農業やサトウキビ栽培などが盛んに行われている。中国の書物には「米を産する最も佳なり」との記録が残されてお...

金武観音寺は、沖縄県国頭郡金武町にある真言宗の陣であり、山号は「金峯山」と称する。金武観音寺は、金武に漂流した日秀上人(1503〜77年)によって、創建されたものである。日秀は19歳のときに家臣を殺してしまうものの、月日が経てどもその懺悔の念を持ち続けていた。そしてついに家を出て高野山を目指し、優秀な師匠のもとにつき修行を行った。密教の教えを懸命に学び、高野山にて出家をするのである。そしてある時、...

龍潭(りゅうたん)琉球王国時代の文化・政治・外交の中心であった首里城周辺には、琉球王家の歴史的建造物がたくさん残されており、歩いているだけでもとても興味深い場所である。その一つに首里城公園の北側に「龍潭(りゅうたん)」と呼ばれる場所があり、周囲416メートル、1427年に造られた人工の池である。ここは魚が多く生息していたことから、別名「魚小堀(いゆぐむい)」とも呼ばれていた。この池は三山統一し琉球...

座喜味城跡は沖縄の中部・読谷村に位置しており、築城家として名手と言われた護佐丸によって造られたお城である。護佐丸は座喜味城から5キロほど離れた山田城の豪族、いわゆる按司であったが、尚巴志が1416年に北山征伐を行うと、有力按司の一人として戦に参戦し成果を上げ後に今帰仁城の看守に任命されている。そのときの今帰仁城の軍事的要塞を持つ構造を参考に、座喜味城を築城したのである。

琉球王国が誕生する前の時代を「三山時代」と呼び、南部を南山、中部を中山、北部を北山と3つの勢力が支配していた。この頃からすでに中国との貿易は行われており、1372 年に中山から始められた、中国(明)への「朝貢」と呼ばれるものこそが、琉球王国が貿易国家として発展を遂げる原点ともいえるものである。朝貢とは中国の皇帝に対して周辺諸国が貢物を捧げ、皇帝側よりも君主であると認めてもらい、経済的にも軍事的にも...

末吉宮は沖縄県那覇市に位置しており、首里城の北の末吉公園内にある。末吉宮までは、末吉公園を横切るようにアクセスしていく、アップダウンの激しい公園だ。参道はかなり上り坂の激しい坂道で、それを上っていった先にトンネルが見えてくる。これは社殿までのアーチ橋階段の下の部分にあたるものである。末吉宮は明治以前の琉球国府から特別の扱いを琉球八社の一つであり、格式のある神社である。主祭神と伊弉冉尊、速玉男尊、事...

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、2000年に世界遺産に登録されている。この石門は首里城正殿に行く途中にあることから、ここは無料で見学できるスポットである。琉球王国時代の国王が城外に出かける際に、往路帰路の安泰を祈願した拝所である。園比屋武御嶽石門は守礼門と歓会門の中間にある石門で、守礼門の後方左側にある石門と周辺のハンタン山を総称して「園比...

佐敷グスク佐敷グスクは那覇の中心部から車で約40分の場所にある、琉球三山統一を果たした尚巴志とその父である尚思招の居城である。グスクではあるものの住居としての性格が強く、遺物は比較的平場から多く発掘されている。1979年の発掘調査によって、中国製の青磁・白磁のお椀やお皿などが多数見つかっており、その他土器、石器、鉄釘、小銭、炭化した米、麦、牛骨などが確認されている。佐敷グスクの近くには馬天港や与那...

琉球の歴史の中で「三山時代」とよばれる時代があり、南山・中山・北山の3つの国に分かれていた。中山城は首里城、北山城は今帰仁城がその拠点であったことが知られているが、南山城は高嶺城、もしくは島尻大里城や高嶺大里城などと言われる。14世紀のはじめころ、大里按司承察度が周辺按司を支配し南山王国を建立しており、南山城跡はその国王の居城跡である。南山王は承察度、汪英紫、汪応祖、達勃期、他魯毎と続いていくが、...

知念城跡は沖縄南部の南城市にあり、知念按司の居城であると伝えられている。知念城跡の周辺にはノロ屋敷跡や石畳をはさんで古屋敷跡などがあるほか、正門から300メートルほど先の崖下には知念按司墓、近くには「ウファカル」とよばれる稲作発祥の地もあり、周辺は見どころの多いスポットである。知念城跡はたくさんの自然に囲まれており、のどかな雰囲気とのんびりとした空間が、癒しを与えてくれる場所でもある。城内には、国...

糸数城跡は那覇空港から車で約30分の場所にあり、沖縄南部最大のグスクである。観光地としてはややマイナーなスポットであり、どこか静かな雰囲気が漂う場所であるがそれがこのグスクのよさでもあるのだ。慶良間諸島まで見渡せる標高180メートルの高台に位置するグスクであり、眺望のよさでも知られている。玉城城跡の西の守り城として築かれたと言われており、琉球石灰岩で造られた野面積みと切石積みの城壁が長く続いている...

琉球の位階とは琉球王国の身分序列であり、第二尚氏王統時代、第三代尚真王の治世においてその基本が確立されたといわれている。1509年には「金銀の簪」によって身分の高い人と低い人に分ける貴賤の別を定め、さらに1524年に「六色の冠(ハチマチ)」によって等級が制定されている。その後1706年に「琉球国中山王府官制」が制定され、九品十八階の位階制度が確立し、1732年には位階昇進の細かい項目を定めた「位階...

玉陵(たまうどぅん)は「玉御殿」や「霊御殿」といわれ、沖縄県最大の破風墓である。ここは琉球王国の第二尚氏王統の大型の陵墓で、歴代国王が葬られている。玉陵は首里城の要路綾門大道にあり、天界寺に隣接しているなど非常に重要なロケーションにあることが伺える。琉球では古来から祖先崇拝信仰の根強い文化を持っていることから、お墓を立派にすることが多く、王家の墓に限らず一般の人のお墓も本土と比べると大きい傾向にあ...

運天港は沖縄本島北部の今帰仁村の本部半島にある大きな港であり、ここから離島へ行くフェリーなども多数運行されている。運天港は12世紀はじめ、源為朝が伊豆半島で流刑にあったため、島から逃れてきた際に途中で暴風雨に遭遇し「運を天に任せて」と漂流したことから名付けられたとも言われている。また近くには為朝がしばらく住んでいたという洞窟(テラガマ)があり、今でも御嶽として大切な聖地として取り扱われている。しか...

沖宮は奥武山公園の東に位置しており、琉球八社の一つである。沖宮の御祭神ははじめ霊木が祀られていたという記録が残されている。1713年の「琉球国由来記」には、「大昔、那覇港の海の中から不思議と光輝くものが見えてきたので、命じてそれを調べさせるとただならぬ霊木であった。翌日は光輝くことがなかったのでこれを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った」と記されている。奧武山には3つの山があり、もっとも高...

識名宮は那覇市にある琉球八社の一つであり、琉球八社とは明治政府以前の琉球王国時代において、王府から特別な扱いを受けた社のことである。首里城から約1キロ離れた識名霊園のそばに位置しており、参道を抜けると鳥居がありまずは拝殿が見えてくる。そして後方には赤い本殿があり、観光客も少なくどこか静かな佇まいを見せている。識名宮は「琉球神道記」の中で「尸棄那権現」、琉球国由来記では「姑射山権現」と記されおり、「...

かつての中山門の跡地綾門大道とは、守礼門から今は現存していない中山門へと西側に向かって下る道路をさす。首里を東西に貫く約500メートルに及ぶ大手道であり、首里周辺ではもっとも大きい琉球王国第一の道であった。さらにその道は崇元寺から那覇港へと続く長いものである。綾門大道には「美しい門の道」という意味を持ち、守礼門は別名「上の綾門」といい、これに対して中山門は「下の綾門」もしくは「下の鳥居」と呼ばれこ...

琉球王国時代、首里城の周辺には王家ゆかりの重要な殿や屋敷などが数多く点在しており、まさに琉球王府に相応しい景観を織り成していた。道もきれいに整備され、それは今もその一部が残されている。その一つが現在首里城公園の中にある円覚寺跡である。首里城周辺に数多くあった仏教の寺院や御殿の中でももっとも大きい規模を誇り、まさにそれを代表する存在であったのだ。昭和8年に円覚寺伽藍として国宝に指定され、総門前には円...

天界寺はかつて首里城と玉陵との間にあった寺院のことである。第一尚氏時代、六代尚泰久王が創建した臨済宗の寺院で、1450年前後に創建されたものである。円覚寺、天王寺とともに、首里三ケ寺の一つに数えられる非常に格式のあるお寺で、尚家の菩提寺でもあった。創建当初の伽藍は、寝室・方丈・両廊・東房・西房・大門・厨司などで、七代尚徳王の時代、1466年には大宝殿を建立している。しかしながら1576年に火災によ...

仲之川首里城周辺の金城町には、川「カー」とよばれる井戸が、今でもたくさん残されている。これはかつて人々の重要な生活用水であったり、琉球王府にとっても大切な資源であったものである。そこで今回は首里城界隈にある川「カー」について紹介していきたい。石畳道の途中にある仲之川は沖縄の言葉で「ナーカヌカー」といい、那覇市の指定文化財に井戸である。東に金城大樋川、西に寒水川樋川がありその中間にあったことからこの...

崎山ギャラリー「ヒジガービラまーい」とは、ヒジ川橋から守礼門に至るおよそ約2キロの散歩道であり、琉球王国時代の古い道路が並び、歴史や文化に触れることのできるスポットである。首里界隈の石畳道近くにあり、周辺に琉球王家ゆかり地が多いことを発見できる道である。首里城の裏手を進むと「崎山ギャラリー」とよばれる場所がある。ここは崎山村、赤田村、鳥小堀村(現在の首里鳥堀町)は首里3箇と呼ばれ、琉球王国時代から...

琉球王国時代の首里は「三平等(ミフィラ)」 とよばれる三つの地域に分けて管轄がなされていた。それぞれ南風之平等(ハエヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)、西之平等(ニシヌフィラ)といい、首里のほぼ中心部にあたるのが「南風之平等」であり、真和志之平等と西之平等に挟まれ、首里城の南から北西方向に位置している。1879年に明治政府が新設されるとともに、琉球では琉球処分が行われ廃藩置県が施行された。...

首里城は沖縄を代表する観光スポットであり、2000年にはユネスコの世界遺産にも登録されている。首里城正殿は首里城最大の見どころとなる場所であり、琉球王国最大の建物でもある。琉球国王の居城として政治、経済、文化の中心として機能していた場所である。首里城正殿は国殿もしくは百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、これは全国を支配するお城として重要な建物であったことを表している。首里城正殿は中国が位置...

御庭(うーなー)首里城正殿の前の広場を「御庭(うーなー)」と言い、琉球王国時代においての重要な中庭である。正殿の前にどーんと広がる光景はなんとも壮大な印象を受ける。「御庭(うーなー)」とは、沖縄の言葉で「広場」をさし、年間を通して国王の即位式、重要な祭事や儀式、中国からの客人をもてなす歓待の場や外交上の重要なイベントなどを行う場所として、幅広く利用されていた場所である。御庭から見て正面が「正殿」、...

琉球王国は1609年に薩摩藩によって侵入され、琉球王国にとって初の対外戦争となる歴史的大きな出来事であった。1609年に薩摩軍は沖縄北部の運天港から攻め入ってくると、今帰仁城を落城し、その後南下して首里城を占拠している。そして江戸幕府から琉球王国の支配権を与えられた島津氏の支配下に置かれることとなり、事実上琉球王国は江戸幕府に組み込まれていくこととなったのである。この薩摩軍の琉球侵攻後の1634年...

「おもろさうし」とは琉球王国4代尚清王代の1532年〜1623年にかけて、首里王府によって編纂された全22巻の沖縄最古の歌謡集である。第1巻が1532年に編集され、1613年に第2巻、1623年に第3巻から22巻までが編集され、やや不定期に編纂されている。「おもろ」の語源は、「思い」に由来するものであり、それは祭祀における祈りの言葉であったと言われている。1709年に首里城の火災に伴い、一緒に焼失...

1609年に琉球王国は薩摩軍の侵略によって、初の対外戦争となったものの、見事に相手の戦略にのみ込まれていき、あっと言う間に首里城を接収されてしまった。その後は事実上、江戸幕府の支配下に置かれるようになると、琉球王国の財政は疲弊した状態へ陥っていき、そこで王国の再建のために就任したのが羽地朝秀である。この人物は1650年、王の命令によって琉球王国はじめての正史となる「中山世鑑」の編纂を行い、琉球王国...

宇江城城跡は沖縄本島から西へ約100キロにある久米島にあるグスクであり、沖縄県のグスクの中でもっとも高い場所にある城跡である。標高310メートルの宇江城岳の山頂にあり、海、山、田園風景、集落など久米島全体を一望できるほどの眺望のよさが魅力的な場所でもある。天候が良ければ粟国島、渡名喜島、沖縄本島も一望でき、まさに観光客から人気のスポットとなっている。また梅雨の時期は霧が発生して、雲海を見ることもで...

1429年、第一尚氏王統の尚巴志の三山統一によって琉球王国の歴史に幕を開けることとなる。しかしながらこの第一尚氏王統の時代は、三山統一を果たしたものの依然として地方の按司と呼ばれる、いわゆる豪族たちの勢力が強く、琉球王府が有効的な中央集権政策を作り上げるのには非常に困難を極めた時代であった。そんな時代の中、尚巴志は非常に優秀な王であり、中国・明との貿易を拡大すべく大交易時代に基礎を構築し、那覇港の...

名護城は名護人発祥の地といわれており、その創建の詳細についてはっきりとしたことは分かっていない。沖縄のグスクでは石積みが見られることが多いが、このグスクは珍しく石塁や城壁を見ることができないが、土塁のグスクであったと思われる。石垣などの遺構は見られないが、丘陵の尾根部を切り取った掘切がある。名護城は14世紀の始めごろ、北山の今帰仁城から分かれてやってきた領主的豪族・名護按司の居城であったと伝えられ...

安慶名城跡は沖縄中部、うるま市の具志川地区の安慶名にある国指定史跡であり、12世紀〜13世紀ころ築城されたと考えられている。一見すると外側からは森にしか見えないため、なんとも神秘的な雰囲気が漂っている。安慶名城は大川按司によって築城されたと伝えられており、「大川城」とも呼ばれている。大川按司は天願城、屋良城、具志川城などを数々のお城を築城して勢力を拡大した人物であるが、それを危惧した琉球王朝によっ...

伊是名島は沖縄北部にある周囲約16キロの離島であり、沖縄本島の今帰仁村の運天港からフェリーが運航されていており約1時間ほどでアクセスできる。伊是名城跡は伊是名島の南東にあり、はっきりとした築城時期が分かっていないものの三山を統一した尚巴志王の祖父鮫川大主により、11世紀〜14世紀ころに造られたと伝えられている。ここ伊是名城跡を遠くから眺めると二等辺三角形のピラミッド型をしており、石山全体がお城とし...