昔から親しまれてきた沖縄の馬場

沖縄には昔から各地に「馬場」とよばれる場所があり、その数は200前後とも言われている。

 

琉球競馬は農村における民族行事や畜産奨励などために行われており、琉球王国時代において士族の楽しみの一つでもあった。

 

競馬のことを「馬勝負(ンマスーブ)」、「馬揃い(ンマズリー)」などと呼び、現代の競馬とは異なり速さで勝負を決めるのではなく、乗り手の振る舞いや馬具の華やかさなども競い合っていた。

 

つまり馬のリズムや姿勢などの美しさも重要視されていたのである。

 

その最古の記録は「琉球諸島航海日誌」の中で、「1615年、陰暦3月3日、首里は祭日で闘鶏と競馬が催される」と三浦按針によって記されている。

 

馬場は主に管轄が3つに分かれており、琉球王家の直轄、村直轄、集落直轄である。

 

特に琉球王家直轄の「真地(マージ)」と呼ばれる平良と識名にあった馬場は、特に有名であった。

 

戦後、琉球競馬はしばらく行われていなかったが、2013年70年ぶりに復活している。

琉球競馬の衰退

仲原馬場

仲原馬場

琉球競馬は沖縄戦の前まで沖縄各地で行われていたが、その記録は1943年(昭和18年)を最後に途絶えている。

 

戦争が激化したことによって軍馬の必要に迫られ、大型馬の需要が高まっていったのである。

 

そして第一次世界大戦後には沖縄は深刻な不況に陥り、競馬よりも戦争の備えを考えたりと、目の前の生活をこなすことに精いっぱいになっていたことも衰退した要因の一つである。

 

そして沖縄戦によってほとんどの馬場は破壊されてしまい、戦後は宅地や耕地になったり、幹線道路や高速道路など一部となってしまったのである。

 

しかしその中でも今帰仁村にある「仲原馬場」は、往時の面影を残している貴重な場所である。

今帰仁村の「仲原馬場」

仲原馬場は「マーウイ」とも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置しており、昭和34年に県の文化財に指定されている。

 

この馬場は幅約30メートル、長さ250メートルの長方形をしているとても大きい馬場である。

 

周囲を約1メートルの高さに土が盛られており、芝生で覆われた場所が観覧席となっている。

 

なんといっても印象的なのが、競争路の両側に松の木がずらりと植えられている点である。

 

これは美しい琉球松であり、太陽の光を遮ることで憩いの場を作っているのである。

 

また戦前までは競馬の係留ために利用されていた場所でもある。