自然豊かな伊平屋島

沖縄本島北部にある本部半島の運天港からフェリーで約1時間20分、美しい珊瑚礁に囲まれた自然豊かな島として知られているのが、伊平屋島である。

 

観光地化がさほど進んでいないからこそありのままの自然や沖縄の原風景が残されており、それがこの島の魅力でもある。

 

島の6割程度が山地となる細長いかたちをしており、農業やサトウキビ栽培などが盛んに行われている。

 

中国の書物には「米を産する最も佳なり」との記録が残されており、伊平屋島は、古来から稲作を盛んに行ってきたことを伺い知ることができる。

 

伊平屋島は沖縄の歴史の中で早い段階から人が住んでいたと言われており、最も古い遺跡は縄文時代前期にあたる久里原貝塚である。

 

発掘調査によって出土品などから人々が生活を継続的に暮らしていた様子を見ることができる。

 

また伊平屋島は、この島のすぐ南にある伊是名島と合わせて歴史に登場してくることが多い島である。

尚巴志と伊平屋島

伊平屋島の歴史を語る上で欠かせないのが、沖縄を統一し第一尚氏王統を作り上げた尚巴志である。

 

尚巴志の先祖は屋蔵大主とよばれる人物で、伊平屋島の出身である。

 

さらに第二尚王統の尚円王は伊是名島の出身で、2人の歴史的人物が誕生した島でもある。

 

伊是名島と伊平屋島は琉球王統発祥の地で、王家の直轄領とされていたことから特別な意味合いを持つ島ともいえるのだ。

古事記にも登場する「クマヤ洞窟」

伊平屋島には、全国にたくさんある「天の岩戸伝説」の最南端といわれる「クマヤ洞窟」がある。

 

伊平屋島でももっとも有名な観光地であり、日本草創神話との関わりがあるとも伝えられている。

 

この洞窟は広さ約600u、高さは10メートル以上もあるとても大きな洞窟で、内部には小さな社があり、奥に行けば行くほど外部の光が差し込んでこなくなるため、どこか神聖で凛とした空気の張りつめる場所でもある。

 

江戸時代の学者である藤井貞幹は、「神武天皇の母玉依姫は、海宮の玉依彦の娘、豊玉姫の妹で、海宮とは琉球国の恵平也島(伊平屋島)」ということを「衝口発」という本の中で伝えている。

 

これは神武天皇は沖縄の伊平屋島に誕生したことをもとに、この洞窟が「天の岩戸伝説」のものであるということを発表したものである。

 

のちに論争を呼ぶことになるが伊平屋島の人にとっては、とても神聖な場所であり、今でもユタはもちろん県外からも参拝者の絶えない場所である。

明治以降の伊平屋島

明治時代に入ると廃藩置県が廃止され、それまで独立した歴史を歩んできた沖縄は、沖縄県としてスタートすることになる。

 

明治42年には島嶼町村制が施行され、複数の村が合併し島尻郡伊平屋村が成立した。

 

しかし伊平屋村役場は伊是名島に置かれたため、村会議などの不便さは必至であり、混乱期が続くこととなる。

 

そして昭和14年に分村許可司令が許可され、ようやく単独村としての歴史を歩むこととなる。

 

昭和16年には役場が火災に遭い、重要な書類などが一切なくなってしまったが、国からの支援を得て復活を果たす。

 

しかしながら昭和19年には空爆をされ、戦時中はこの島で約40名の犠牲者が出ている。

 

戦後は沖縄本島と同じく米軍の支配下に置かれ混乱期にありながらも、昭和47年に本土復帰を果たし、道路や建設などの整備が進められていった。

 

2005年7月に伊是名村との合併による新「伊平屋村」発足を目指したものの、投票の結果、住民の反対意見が強くそれを断念している。