守礼門から続く綾門大道

かつての中山門の跡地

かつての中山門の跡地

綾門大道とは、守礼門から今は現存していない中山門へと西側に向かって下る道路をさす。

 

首里を東西に貫く約500メートルに及ぶ大手道であり、首里周辺ではもっとも大きい琉球王国第一の道であった。

 

さらにその道は崇元寺から那覇港へと続く長いものである。

 

綾門大道には「美しい門の道」という意味を持ち、守礼門は別名「上の綾門」といい、これに対して中山門は「下の綾門」もしくは「下の鳥居」と呼ばれこの2つは対になっており、当時は牌楼様式の門であったと伝えられている。

 

中山門は1428年の創建とされ、当時は建国門と呼ばれ、1681年から板葺きかた茅葺きとなっている。

 

守礼門は今ではすっかり観光名所となっているが、中山門は明治期の廃藩置県後の1905年、老朽化により取り壊され現在でも復元はされていない。

琉球王国時代に整備された道のり

御客屋

御客屋

綾門大道は今から約600年前の琉球王国時代に、はじめて整備された道である。

 

道幅は12メートル、琉球石灰岩の粉で敷き詰められたとても美しい道のりであったという。

 

これがまさに琉球の歴史でもっとも最初に整備された道であり、18世紀の「首里古地図」によると綾門大道の周辺には、この通り沿いには中城御殿や王家別寮の大美御殿などの重要な建物が立ち並んでいたという。

 

王家の墓の玉陵、御客屋、王家とゆかりのある天界寺や安国寺など王府関連の建造物が建ち並び、まさに琉球王府に相応しい景観を織り成していたのである。

 

また道幅が広く美しい道にこだわった理由の一つは、中国の冊封使が琉球の国王が交代する際にここ首里を訪れ、おもてなしをする意味もあったと言われている。

 

綾門大道周辺の旧跡は、1945年の沖縄戦によって壊滅的な被害を受けてしまったが、首里城や守礼門、玉陵の修復、そして首里城の復元と整備が進められている。

綾門大道で行われるイベント

また綾門大道では、国王一代に一度限りの「綾門大綱(ウフンナー)」とよばれる大綱引も行われていた。

 

これは琉球王国の冊封を祝福するとともに、琉球王国の安泰や繁栄を祈願するイベントであった。

 

全長216メートルもあるとても大きな綱で明治まで続けられていたが、その後は一時的に衰退してしまった。

 

しかし平成に入って109年ぶりに復活をしている。

 

また毎年元日に行われる馬術の「馬勝負」もここて行われたいたと言われている。