琉球八社の一つに登録されている末吉宮

末吉宮は沖縄県那覇市に位置しており、首里城の北の末吉公園内にある。

 

末吉宮までは、末吉公園を横切るようにアクセスしていく、アップダウンの激しい公園だ。

 

参道はかなり上り坂の激しい坂道で、それを上っていった先にトンネルが見えてくる。

 

これは社殿までのアーチ橋階段の下の部分にあたるものである。

 

末吉宮は明治以前の琉球国府から特別の扱いを琉球八社の一つであり、格式のある神社である。

 

主祭神と伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊の熊野権現をお祀りしており、別鎮斎として土祖神、澳津彦命、澳津姫命、産土神を祀っている。

創建と夢のお告げ

創建について「琉球国由来記」の中の「大慶山権現縁起」によると、尚泰久王代の1456年頃、首里の天界寺住持鶴翁和尚が、倭国にて修業中熊野権現を尊び信じていた。

 

しかし帰国したあとも、国王は熊野へのお参りを許すことはなかった。

 

そんな中ある日夢の中で、「師よ志を遂げたいと欲するなら、是より北山に向かって大きな声で呼びなさい。応ずる所に霊験があるだろう。そこが即ち居所である。私は熊野権現である」というお告げを受けるのである。

 

そして同時に国王にもそのお告げがあった。

 

これは単なる偶然ではなく、意味のあることであろうと周囲の大臣などの助言もあり、この地に末吉宮を創建したのがそのはじまりと言われている。

明治以降の歩み

明治時代に入ると琉球処分が行われ、廃藩置県によって琉球王国が廃され沖縄県となった。

 

近代社格制度により無格社となったが、経済的な理由や社殿設備に不備があったことから事実上村社列格ができなかったと考えられている。

 

また明治まで日本本土とは異なる歴史を歩んできた琉球王国にとって、寺請制度という概念がなった。

 

つまり民衆と信仰的に深い関係にあったのは、古来から大切にしてきた御嶽に対する崇拝であった。

 

また無格社となった末吉宮は、経済的な保障が受けられず、非常に荒廃が進んでいる状態となっていった。

 

事実、1939年(昭和14年)の沖縄県振興事業による復興計画におけて取り上げられた際には、明治末期まで残っていた拝殿は失せており、散々な状態であったという。

 

さらに沖縄戦の攻撃によって、建物の大半が破壊されてしまった。

 

しかし昭和31年に沖縄県指定有形文化財、昭和47年に国指定史跡に登録されて保護されるようになり、現在見られる社殿は昭和47年に復元されたものである。

 

末吉宮は山奥にあることから、日没後などの観光は避けるようにし、山道なので歩きやすい靴がおすすめである。