薩摩軍の琉球侵入

琉球王国は1609年に薩摩藩によって侵入され、琉球王国にとって初の対外戦争となる歴史的大きな出来事であった。

 

1609年に薩摩軍は沖縄北部の運天港から攻め入ってくると、今帰仁城を落城し、その後南下して首里城を占拠している。

 

そして江戸幕府から琉球王国の支配権を与えられた島津氏の支配下に置かれることとなり、事実上琉球王国は江戸幕府に組み込まれていくこととなったのである。

 

この薩摩軍の琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで、合計18回にわたって江戸上りが行われた。

 

江戸上りとは琉球王府から江戸幕府に派遣された使節のことで、琉球使節とも呼ばれた。

 

江戸幕府の将軍が変わると「慶賀使(けいがし)」、琉球国王が代わると「謝恩使(しゃおんし)」という使節を派遣していたのである。

使節団の構成

使節団の規模は通常は80人程度、最大で170人で構成されていたという。

 

6月ごろ琉球を出発するとまずは船で、現在の鹿児島にあたる薩摩山川港に入り、琉球館でしばらく滞在し9月ごろ薩摩を出発し、長崎、下関、瀬戸内海を抜けて大阪に上陸する。

 

そして京都から東海道で江戸を目指し、江戸につくのは11月ころであったという。

 

江戸に到着すると数か月滞在し、年明けに大阪までは陸路を使い、その後航路にて薩摩を経由して琉球へと戻ってくるのであった。

 

その道のりは往復で約2000キロにも及び、1年がかりの旅であったのだ。

 

将軍への謁見の際には諸大名が隣席し、国王からの表文と献上品が渡されると、将軍は使節団に賜品を与えるのが慣例であった。

江戸上りの意図とその文化交流

正副使などの重要な人員は中国風の装束に着ており、随員は琉球装束を身にまとっており、あくまでも琉球王国は独立国として対面している姿勢を保っていたのである。

 

江戸上りは、異国(琉球)からの来訪を受ける江戸幕府の権力を表すとともに、琉球王国の管理・支配している薩摩藩が対面することで、両者の権威が高いことを内外に印象づける意図があったのである。

 

琉球王国にとって実質的には幕藩体制の中に組み込まれていながらも、琉球王国として今もなお独立していることを外に見せるよい機会と考えていたのだ。

 

また琉球使節は音楽を演奏したり琉球舞踊を踊る者も随行しており、各地で歓迎を受けていたという。

 

特に路次楽(るじがく)は、江戸上りの道のりにあった農村部などに大きな影響を与えた。

 

路次楽とは、中国から伝わった琉球の宮廷音楽のことで、行列を成しながら演奏する「道中楽」であった。

 

一方路次楽とは異なり、室内で座って演奏する「御座楽(おざがく)」を、江戸城や薩摩藩江戸屋敷で披露していた。

 

また京都、大阪、江戸で当時流行っていた能楽や歌舞伎などから学ぶことも琉球の使節団にとっては多く、まさに江戸上りは文化交流にも大いにに寄与したといえる。